絵本の紹介「てぶくろ」

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

少し朝晩が冷え込む季節になってきましたね。

寒い日の夜などに街を歩いていると、手袋の落とし物を目にすることがあります。

なぜか、必ず片方だけです。

両方落ちているのは見たことがありません。

 

どうやら、そうした現象は、時代や国が違っても、変わらないようです。

今回紹介するのはウクライナの民話絵本「てぶくろ」です。

エウゲーニー・ミハイロヴィチ・ラチョフさんの作品で、翻訳は「おおきなかぶ」の内田莉莎子さんです。

 

鉛色の空と、白い雪。

北国の厳しい寒さが伝わってくる挿絵です。

 

和洋問わず、昔話には「おじいさん」が必ずと言っていいほど登場しますが、このお話に出てくる「おじいさん」は、少々特殊な扱いを受けています。

というのも、文章には登場するのですが、絵には描かれないのですね(子犬も)。

これは前回紹介した「三びきのこぶた」で、おかあさんぶたが描かれなかったこととは意味合いが違います。

それは後で触れます。

 

≫絵本の紹介 瀬田貞二・山田三郎「三びきのこぶた」

 

物語は、おじいさんが森の中を歩いていて、「てぶくろを かたほう」落としてしまうところから始まります。

そこへねずみが潜り込み、「ここで くらすことに するわ」と決めます。

木の枝で土台を組み、梯子をかけたりして、ちゃんと家として機能しているようです。

そこへかえるがはねてきて、

「だれ、てぶくろに すんでいるのは?」

「くいしんぼねずみ。あなたは?」

「ぴょんぴょんがえるよ。わたしも いれて」

「どうぞ」

というやり取りを経て、てぶくろに同居します。

 

以後、次々にいろんな動物たちが同じ問答を繰り返しては、てぶくろに入居してきます。

文では説明されませんが、ページが進むごとに、てぶくろが段々改装されて、立派な家になっていきます。

 

それにしたって、キツネやら狼やら猪までがてぶくろに入るというのは子ども心にも「ありえない」と思うところです。

しかし、明らかに入れないはずなのに、なぜか絵を見るとちゃんと収まっているのです。

しかし、よく見るとてぶくろの縫い目は裂け始めています。

さらにそこへ熊が「わしも いれてくれ」とやってきます。

 

「おおきなかぶ」での繰り返しは大団円へと向かいますが、この絵本の繰り返しは、より危うい方へ、バランスの崩壊を予感させながら進行します。

 

≫絵本の紹介「おおきなかぶ」

 

いったいてぶくろはどうなってしまうのか。

動物たちは喧嘩にならないのか。

 

そんな期待と不安が最高潮に高まったところで最後のページをめくると、このお話は実に唐突に終わりを告げます。

おじいさんがてぶくろが片方ないことに気づき、戻ってきます。

子犬が先に駆けていき、てぶくろを見つけて吠えたてると、動物たちはあわてて逃げていきます。

そこへおじいさんがやってきて、てぶくろを拾います。

 

この部分を説明する絵は一切なく、冒頭のてぶくろのカットがほぼそのまま、小さく描かれているだけです。

てぶくろに付けられた窓も煙突も梯子も、すべてなくなっています。

おじいさんはてぶくろに起こった異変も、動物たちも、何も見てはいません。

つまり、この絵本における「おじいさん」は(別に物凄い巨人というわけではなく)、現実世界の象徴なのです。

だから、セリフもなく、絵にも描かれないのです。

 

私たちは目に見える現実世界に生きているつもりでいますが、実際には見えない部分の方が遥かに多く、その部分はいわば想像で補っているに過ぎません。

落とした片方の手袋は、そんな見えない、知りえない世界の象徴と言えるでしょう。

 

■えほにずむでは、このブログで紹介した以外にも、たくさんのよい絵本を取り扱っております。ぜひ、HPも併せてご覧ください。

絵本の買取依頼もお待ちしております。

 

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URL:http://ehonizm.com

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絵本の紹介「かいじゅうたちのいるところ」

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

今回はモーリス・センダックさんの最高傑作との呼び名も高い、「かいじゅうたちのいるところ」を紹介します。

コールデコット賞という、絵本界では最高の賞を受賞している作品です。

 

ある日、いたずらが過ぎたマックスという男の子は、お母さんに夕ご飯抜きで寝室へ放り込まれてしまいます。

すると、寝室がたちまちのうちに大きな木の生え茂る森に変貌します(この間、だんだんページにおける絵の比率が大きくなっていくことに注目)。

マックスは船に乗り、「1しゅうかんすぎ、2しゅうかんすぎ、ひとつき ふたつき ひが たって、1ねんと 1にち こうかいすると」「かいじゅうたちの いるところ」に到着します。

このかいじゅうたちの描写がなんとも独創的で秀逸です。

子どもが怖がるのでは……と心配になるほどの迫力。

すごい こえで うおーっと ほえて

すごい はを がちがち ならして

すごい めだまを ぎょろぎょろ させて

すごい つめを むきだ」すのですから。

 

しかし、マックスは「かいじゅうならしの まほう」で、かいじゅうたちをあっさり服従させてしまいます。

そしてここから、見開き3連続による、文章のない絵のみのシーンが展開されます。

センダックさんはいつもクラシック音楽を鑑賞しながら創作に向かうそうです。

そのせいか、彼の作品のバックグラウンドには、いつも音楽的な躍動感が流れています。

 

このシーンも、読み聞かせる側にしてみれば、「どうすりゃいいの?」と困惑するところですが、子どもは絵本の中で流れているはずの音楽を、お祭り騒ぎを、しっかりと感じています。

子どもと一緒に歌うもよし、楽器を鳴らすもよし、踊るもよし。

 

子どもだけが持つ、原始的な感情のカタルシスは、言葉では表現できません。

踊り、歌い、リズムに乗り、体全体、五感のすべてを使って感情を発散させるのです。

 

やがて、感情を吐き出しつくしたマックスは、急にさびしくなって、「やさしい だれかさんの ところへ」帰りたくなります。

それで、引き留めようと懇願するかいじゅうたちを残して、マックスは船に乗ります。

これは重要なことですが、この世界ではマックスが完全に主導権を握っているのです。

だから、絵本を読む子どもたちも、かいじゅうたちを恐れる必要がないのです。

空想の世界から寝室に戻ったマックスの、この憑き物が落ちたような顔。

 

「かいじゅうたち」は、子ども自身の、制御できない恐ろしい衝動的な感情であり、それを手なずける手段は、空想力です。

もりのなか」の紹介文でも触れましたが、子どもは現実と空想の世界を自在に行き来しますが、それは子どもが成熟するために、必要不可欠の能力なのです。

 

≫絵本の紹介「もりのなか」

 

真の意味での「現実」は、「空想」に支えられて初めて生きた姿を見せます。

現実は空想を生み、空想は現実の理解を助けます。

大半の大人が言う「現実」は、そういう意味では片手落ちなのです。

 

子どもの空想とは、何でもありのカオスではありません。

そこには厳然たるルールが存在します。

それは、子ども同士の真剣な遊びを見ていればわかることです。

 

「かいじゅうたちのいるところ」は、そうした子どもにとっての空想、ファンタジーというものを、センダックさんが率直で先入観のない目でとらえ、描いた傑作です。

 

 

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絵本の紹介「もりのなか」

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

私は息子に1000冊以上の絵本を読み聞かせましたが、その中で、まだ絵本作家の名前もろくに知らなかったころ、「なんだか地味な絵本だなあ」と思いながら、しかしなぜか強烈な印象を受けた一冊があります。

 

それが今回取り上げる、「もりのなか」です。

茶色い表紙に、白黒の内容。

本文がまた、ゆったりとしてて、地味です。

 

しかし、その内容は実に謎に包まれています。

一読して、「これは、いったい、なんだろう?と呟かない大人はいるのでしょうか。

いきなり、

ぼくは、かみの ぼうしを かぶり、あたらしい らっぱを もって

もりへ、さんぽに でかけました

と始まります。

森の中でライオン、象、くま、カンガルー、こうのとり、猿、うさぎが次々と男の子の仲間に加わります。

が、なぜみんなが行列(原文ではパレード)を作って歩くのか、動物たちがそれぞれ持ってくる道具には何の意味があるのか、なぜこうのとりは何も喋らないのか、どうして男の子はうさぎにだけは特別な気遣いを見せるのか……といった事柄には、何も説明はありません。

 

そしてお菓子を食べ、みんなで遊び、最後にかくれんぼうで鬼になった男の子が目を開けると、動物たちはいなくなって、父親が迎えに来ます。

父親は「もう おそいよ。うちへ かえらなくっちゃ

きっと、またこんどまで まっててくれるよ

と言い、男の子は父親に肩車されて帰っていきます。

 

「え、おわり?」と拍子抜けするようなあらすじですが、注意深く読めば、深い、それこそ森の奥へ引き込まれたような気持ちにもさせられます。

 

大きな事件もなく、最初から最後まで平和で友好的な情景が続くという点では、「ぐりとぐら」のような子どものための安心できる世界とも言えますが、「ぐりとぐら」との決定的な違いは、最後に現実世界の代表者である父親が登場し、主人公を日常へ連れ戻すところです。

 

つまり、男の子にとって幸せなこの空間は、あくまで現実と隣り合わせになった空想の世界であることが、はっきりと描かれているのです。

男の子自身は、現実と空想の間で揺らいでいる存在なわけですが、ある時期の子どもというものは、こういう「境界」を漂うようにして生きています。

 

大人はそうした子どもに対し、「夢みたいなことばかり考えてるんじゃない」と、無理やりに殺伐とした現実へ連れ戻そうとしがちです。

けれど、この男の子の父親は息子の空想を否定せず、「またこんどまで まっててくれるよ」と、素敵なことを言ってくれます。

子どもにとっての空想がどれほど大切なことか、知っているのです。

 

適切に空想力を育てなかった子どもは、世界や人間に対して、血の通った理解を持つことができません。

現実的感覚だけでは、物事の本質にまでは到達できないからです。

だからといって、空想の世界に生きろと言っているわけではありません(父親も、きちんと男の子を日常へ連れ帰ります)。

 

「シュタイナー教育」で知られるドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーは、「すべての感覚的な事物の中に、超感覚的なものが存在している」と語っています。

つまり、偏見のない目で世界を見れば、感覚的なもの(見え、聞こえるもの)と、超感覚的なもの(精神的なもの)は、相互補完の関係にあるというのです。

 

将来的に子どもが何かを学ぶ時、それを灰色の「死んだ」知識として詰め込むのか、光り輝く「生きた」知恵として吸収するのかは、子どものころにしっかりと空想力を成長させられるかどうかにかかっています。

 

作者のマリー・ホール・エッツさんは、孤児院で仕事をしていたこともあり、子どもの心というものをよく知り、そして子どもの心に同化することのできる稀有な作家です。

彼女はこの作品を、病気の夫の最期を看取りながら、森の中の家で描いたそうです。

おしまいのページの、誰もいなくなった森の風景は、彼女自身の追憶なのかもしれません。

 

 

■えほにずむでは、このブログで紹介した以外にも、たくさんのよい絵本を取り揃えております。

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