「絵本による育児」を振り返る

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

新型コロナの影響で休校していた学校も、ぼちぼち再開されるようですね。

でも、それは別に「もう心配ない」という意味では全然ないようです。

 

いったいこの休校にどんな効果があったのか、何をもって学校再開しても大丈夫となったのか、納得のいく説明は耳にしません。

むしろ「これ以上自粛ムードが拡がるとコロナより先に経済的な問題で死者が出る」ことの不安が大きくなったような気がします。

 

それはそうでしょうけど、だからといってウイルスの問題が消えたわけではないので。

うちの息子も4月から小学生ですけど、心配は尽きません。

というか、ウイルス以前の心配ごとも山積してるんですけど。

そもそも集団生活をまともに送れるのか。

息子の成長について、ここでちょいちょい綴らせてもらってますけど、就学を間近に控えた今、もう一度振り返ってみようと思います。

過去の繰り返しになる部分も多いですけど、最近ブログ読者が増えてきたみたいですし。

 

息子の誕生は、私にとって絵本というものに深く関わるきっかけでもありました。

あの時はまさか自分が絵本屋を開くことになるとは想像もしてませんでした。

 

人間を育てる。

自分自身が未熟な人間である私に、うまくそんなことができるのか。

息子が生まれる前、私と妻は色々と話し合った末に、絵本の力を借りることにしました。

それは絵本の読み聞かせによって健全で円満な英才児を育てた海外の例を参考にしたものです。

 

≫3歳までに絵本を1000冊読み聞かせたら

≫読み聞かせという英才教育

 

そして私の願いとして、「自由な精神を持つ子ども」を育てたいということがありました。

これは簡潔に説明することの難しいテーマですが、これまでの記事の中で、そして絵本紹介の中でも折に触れて考察してきました。

 

≫「自由な子ども」を育てるということ

≫倫理と想像力【自由な子どもを育てるということ・2】

≫子どもの自己中心性を守る【「自由な子ども」を育てるということ・3】

 

幼い頃から、それこそまだ言葉も理解できない0歳時からたくさんの絵本を読んであげることは、子どもの言語や情緒の発達に大きく影響します。

これは単に言葉や文字を早くに教え込むことや知識の詰め込みとは違います。

絵本を読んでもらうことは子どもの自然な欲求だからです。

 

我が家の読み聞かせルールは「いつでも、何冊でも、何度繰り返しても」です。

息子が望めば、望んだ分だけ、それに応えてやる。

もちろん100%できたわけではありませんけど。

 

その代わり、息子が望まない時は一切読みません。

途中でも息子が飽きたらやめます。

そして他の遊びも、可能な限り息子の望む形で付き合います。

 

子どもにとって絵本を読んでもらうことは愛情の確認でもあります。

どんな時でも「読んで」と言ったら読んでもらえること、近しい大人の体温と肉声を感じることは、自分が無条件に愛されているという肯定感を育むことでもあるのです。

 

ただ、こういう育て方にはいつもある指摘が付きまといます。

わがままになるんじゃないの?」という疑問です。

 

「わがまま」といっても色々あるし、すべてが悪というわけでもないと思いますが、日本は特に「わがまま」を嫌悪する傾向があるので、こういう心配はなかなか拭えません。

「自己中心性」を「主体性」にどう昇華させるかは難しい問題です。

 

実際、息子はわがままです。

一番難しいと感じているのは、「賞罰」に依らずに言うことを聞いてもらう方法です。

つまり「脅し」や「餌」といった交換条件をつけることは上記の「主体性」や「自由な精神」という理念から外れると思うので、私としては子どもの頃からできる限りその手は使いたくないのです。

 

しかし、そうなるとほとんど言うことは聞いてもらえません。

「嫌なものは嫌」で終わりです。

傍から見れば「なんで子どもにそんなわがままを許すの?」と思われるでしょう。

 

これについては本当に自分の力不足であり、別の方法もあったはずだと思うのですが、結果として息子の規則正しい生活という面では完全に失敗しました。

夜に寝ない息子には本当に苦労しましたし、今はかなり改善されましたけど、まだ苦労は続いています。

 

一度カッとなると一切理屈が通じないモードになる息子は、自分が遊んでもらいたい時に私が出かけようとすると怒ってしがみついてきたりします。

つい先日も用事があって出かけようとする私に「ダメ! 一緒にピタゴラ装置作るの!」とパンチを浴びせてきました。

「帰ってから」「あとで」は通じません。

正直「またこのパターンか」と思ったんですけど、すぐに息子は気分を切り替えたらしく、「ぼくが一人でやるから、帰ってきたら見てね」「心配しないで行ってきて」と言い出したんですね。

切り替えすぎというか、ほとんど豹変。

息子の中で何が起こっているのかはわかんないけど、とにかく成長しています。

子育ては「信じて待つ」態度が肝要です。

言語能力的には色々あるんですけど、最近「なんかすごいな」と感じているのは、「誤植を見つける能力」です。

以前から科学館の展示物の解説文の脱字や意味のない重複などを指摘してきた息子ですけど、図鑑なんかでも「こんなとこ読んでんの?」と驚くような部分で誤植を発見します。

 

宇宙関係の本ですが、「索引」で「あ」の項目に「か」で始まる用語が入っていることを指摘したり、「アインシュタインリング」という言葉が「アイインシュタインリング」(イが多い。志村けんか)になってることを見つけたり。

「どーでもいいわ、そんなん」とも思いますけど、読んでないようで読んでるんですねえ。

 

小学校の勉強とは関係ないけど、別に勉強ができようができなかろうが私としてはまったく気にしません。

小学校は楽しく遊べる場所ならそれでいいと思っています。

息子の人間的能力の開花を信じて待つだけです。

 

 

■これまでに紹介した絵本のまとめはこちら→「00冊分の絵本の紹介記事一覧

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【絵本の紹介】「ルピナスさん」【370冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

今回紹介するのは「ルピナスさんー小さなおばあさんのお話ー」です。

作・絵:バーバラ・クーニー

訳:掛川恭子

出版社:ほるぷ出版

発行日:1987年10月15日

 

バーバラ・クーニーさんの作品をここで紹介するのは初めてですね。

どちらかというと玄人好みっぽい絵本作家さんで、派手さはないけど抜きん出た画力を持ち、繊細で美しい作品を数多く残されています。

絵本の絵を単純に二分することは適切ではありませんが、「動と静」に分けるとするならば「静」の絵と言えるでしょう。

 

大人のファンも多い作家ですが、この「ルピナスさん」は特に大人の女性から支持されている絵本です。

世の中を、もっと美しくするために」何かをするという祖父との約束を胸に人生を生きたひとりの女性を描いた物語。

 

少女時代、青春時代、晩年をダイジェストのように展開します。

文章は簡潔で抑制的であり、静謐な絵も相まって、淡々と進んでいくイメージがあります。

けれども、その一枚一枚のカットと行間からは、様々な想像を刺激されます。

 

ルピナスさん」というおばあさんについて、姪っ子が語る形式で物語は進みます。

「ルピナスさん」の子どもの頃の名は「アリス」。

アリスは海辺の町で「船首像」や看板や絵を描く仕事をするおじいさんの手伝いをして子ども時代を過ごします。

 

おじいさんから遠い国々のお話を聞かされ、アリスは将来は遠くへ行き、おばあさんになったら海の傍に住もうと考えます。

おじいさんはアリスにもう一つの約束をさせます。

世の中を、もっとうつくしくするために、なにかしてもらいたいのだよ」。

何をするべきかわからないまま、アリスはその約束をします。

成長したアリスは図書館で働き、「ミス・ランフィアス」と呼ばれるようになります。

その後ミス・ランフィアスは南の島へ行ったり、雪山登山をしたり、砂漠をラクダで横断したり、世界中を旅して回ります。

それらの国々で忘れられない人々との出会いを経験します。

しかし、事故で身体を痛めてしまい、ミス・ランフィアスは子どもの頃夢見たように、海の傍の家に引っ越します。

そこで静養しながら、おじいさんとの約束に思いを馳せます。

 

ある春の日、散歩に出たミス・ランフィアスは、丘の向こうでルピナスの花が咲いているのを見つけます。

それは、自分が庭に撒いた種が風に乗って運ばれてきたものでした。

その時、彼女は自分にできることに気づきます。

ミス・ランフィアスは村中にルピナスの種を撒いて歩きます。

変人扱いされることもありましたが、やがて村は青や紫やピンクのルピナスの花で埋め尽くされます。

 

ミス・ランフィアスは今では「ルピナスさん」と呼ばれています。

年取ったルピナスさんの家には、たくさんの子どもたちが集まってきます。

ルピナスさんの姪っ子(彼女の名前も「アリス」)は、ルピナスさんに約束します。

世の中を、もっとうつくしくするために」なにかをすることを。

 

★      ★      ★

 

主体的に人生を生きる一人の女性の姿と、すっくと立つ美しいルピナスの花が重なります。

この絵本にはどのページも青、紫、ピンク、白などのルピナスのパステルカラーが象徴的に使われています。

 

作者のクーニーさんは1917年にアメリカで生まれ、美術を学び、結婚・出産・離婚・再婚、そしてその間に戦争を経験し、40歳を過ぎてから世界中を旅行し、100冊以上の絵本を残し、2000年に83歳でその生涯を閉じました。

それを踏まえて読むと、「ルピナスさん」は多分に作者の自伝的作品と言えそうです。

 

アリスは美しいルピナスの花を。

クーニーさんは美しい絵本を、世界に咲かせました。

 

若い頃に旅をすることは大事だと言われます。

しかしただ旅行をすればいいと考えるのは誤解です。

 

「自分探しの旅」という言葉がもてはやされた時期がありました。

私自身も、若い頃には旅行をしたし、子どもの頃は家族で海外にも行きました。

けれど振り返った時、そこから人生に有意義なものを学んだという実感は極めて希薄です。

 

それは私の旅行が全然主体的なものではなかったからです。

ただ親に連れられて、何の知識もない国へ漫然とついて行き、ホテルに泊まり、バスで移動し、観光地を巡り、お土産を買う。

もちろん思い出は残りますけど、「学び」は全然ない。

 

見知らぬ土地へ旅することが大切なのは、そこで自分の狭隘な常識や固定観念を壊してもらえるからです。

「世界はこんなものだろう」という幼稚な認識の枠を外してもらえるからです。

そのためには、やはり主体的に旅をしなければならないと思います。

 

そういう経験はルピナスさんのように若い頃にしておいた方がいいのはもちろんですが、上で触れたようにクーニーさん自身は中年期になってから世界各国を旅したそうです。

今になってから猛烈に旅をしたくなっている私にとっては、励まされるようなエピソードです。

 

仕事や家庭(あとお金)、いくらでも言い訳はできますけど、人生のどの時期からでも「主体的に生きる」ことができるなら、旅をするのに遅すぎるということはないと思います。

 

推奨年齢:6歳〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆☆

ルピナスさんの部屋が人生を物語っている度:☆☆☆☆☆

 

■今回紹介した絵本の購入はこちらからどうぞ→「ルピナスさん

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【絵本の紹介】「風が吹くとき」【369冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

東日本大震災から9年が経ちました。

今も傷は癒えず、復興は見通せません。

それは原発事故が重く影響を及ぼしているからですが、汚染水問題やがれきの処理など、一体今現在現場はどうなっているのか、そして今後はどうなっていくのか、この9年ずっとモヤモヤした霞がかかっているように感じます。

 

今回はあえて震災そのものではなく原発事故の面を、レイモンド・ブリッグズさんのベストセラー「風が吹くとき」と共に考えてみます。

作・絵:レイモンド・ブリッグズ

訳:小林忠夫

出版社:篠崎書林

発行日:1982年7月5日

 

アニメ化もされた作品で、「核戦争の恐怖」を描いた問題作です。

これは旧版で、現在はさくまゆみこさんの訳によりあすなろ書房から再刊されています。

 

細かいコマ割りを用いたコミック・スタイルは同作者の「さむがりやのサンタ」や「ゆきだるま」と同様ですが、その内容はあまりにも重く、怖気を震うようなブラックユーモアで、淡々と物語が進みます。

 

≫絵本の紹介「さむがりやのサンタ」

≫絵本の紹介「ゆきだるま」

 

退職し、イギリスの片田舎で年金暮らしをしているジムと、妻のヒルダ。

ロンドンで暮らすロンという息子がいます。

ジムは国際情勢に興味を持ち、昨今のきな臭い空気に懸念を示していますが、ヒルダはまるでそんなことには興味がなく、大衆新聞しか読みません。

ジムがいっぱしに展開する戦争論にも、頓珍漢な返事ばかり。

まあ、どこにでもいそうな熟年夫婦です。

ところがラジオで本当に戦争が始まったことが告げられ、ジムは動転します。

それでもヒルダは楽観的に「どうせすぐ終わる」などと言います。

 

ジムは政府が発行しているパンフレットに従って、核爆弾に備えた家庭用シェルターを作りにかかります。

壁にドアを立てかけ、窓に白いペンキを塗り……正直お粗末極まりない「シェルター」ですが、ジムは政府を信じ、大真面目に作業。

ここのヒルダとのやり取りがなんとも可笑しいのですが、笑っていいのやらなんやらわからなくなります。

 

そしてどうしても「北朝鮮のミサイルに備えて頭を抱えて地面に臥せる人々」の写真を連想してしまいます。

あの人たち、本当に怖がっていたのかしら。

 

一方、どこか遠くでひたひたと迫る実際の戦争は見開きの大ゴマで不気味に描かれます。

突然ラジオの臨時ニュースが敵(ロシア?)から核ミサイルが発射されたことを知らせます。

ジムは仰天し、ヒルダを引っ張ってシェルターに逃げ込みますが、こんな時でもヒルダは「ケーキがこげちゃう」ことを心配。

 

真っ白な光に包まれ、爆風と熱が過ぎ去ります。

家の中はめちゃめちゃになるものの、シェルターのおかげか、ジムたちはとりあえず無事です。

こんな状況になってもまだ、どこか呑気さが漂う夫婦の会話。

放射能を心配しながらも外に出て、ひどい有様を目にしてもまだ、すぐに政府が救援に来てくれることを信じきっているのです。

 

しかし徐々に核爆弾の影響で蝕まれていく二人。

画面は不気味に白っぽくなっていき、二人の皮膚には紫色の斑点が出てきます。

 

不安になりつつ、あくまでも日常を維持しようと振る舞うジムとヒルダ。

口から血を流しながら歌うジムの姿にはぞっとさせられます。

 

助けは来ないまま、二人は横になり、歌いながら……。

 

★      ★      ★

 

子どもの頃に本で核戦争というものを知ったとき、私はあまりの恐ろしさに気が狂いそうでした。

昨今も核の恐怖を描いた様々なメディア作品は発表されています。

ところが、私の印象としては、それらはさほど怖くないのです。

 

それは表現力の問題というより、作り手側に本当の恐怖心がないからかもしれません。

原爆投下当時の広島の惨状を目にした経験を持つ丸木俊さんの「ひろしまのピカ」などは、大人になった今読んでも生々しい恐怖を覚えます。

 

≫絵本の紹介「ひろしまのピカ」

 

イギリス人であるブリッグズさんは実際に核戦争を体験したわけではありませんが、この絵本が発表された1982年は冷戦のさなかで、「核戦争の恐怖」は現代よりずっと色濃く人々の頭上にのしかかっていたと想像されます。

 

日本は唯一の被爆国ですが、同時に原子力発電所に大幅に頼ることで文明を享受してもいます。

「恐るべき核爆弾の力を平和利用した素晴らしい発明」と言えば聞こえはいいかもしれませんが、本気でそう思っている人はどのくらいいるのでしょう。

 

原子力そのものは善でも悪でもない、ただのエネルギーです。

ただし、それは世界を滅ぼすほどの爆発的エネルギーです。

そんなものを扱うことが、怖くないのでしょうか。

 

私は怖い。

子どもの頃に感じた、気の狂いそうな恐怖を、私は忘れていません。

誰だって本当は怖くて怖くてたまらなかったのではないでしょうか。

 

その本能的恐怖を、「科学」と「金」という「信仰」によって人々は抑え込んだのです。

 

私を含め、現代の人間は「科学的に」話をされると納得します。

「原発は安全である」という話を、どこかの科学者が色々と難しい数字を挙げて説明すると、なんとなく安心します。

 

しかし考えてみれば、私はその内容についてさほど理解していません。

たとえばこうしてこの文章を書いているパソコン機器やインターネットの仕組みについても、私は無知です。

普段利用する様々な機械についても、ほとんど何もわからないまま使っています。

 

何故専門的な話が本当には理解できなくても「納得」することができるかと言えば、それは「科学」というものを「信じて」いるからです。

絶対不変の数字という「神」を信じているからです。

 

自分が完全に理解できないものを信じるという態度において、それは宗教と変わりません。

宗教にしても、本当に霊的世界を体験し、なおかつそれを理解し、伝える能力がある人間はごく一部でしょう。

それ以外の人間は「信じている」だけです。

 

だから宗教が広まる過程において必ず誤謬と嘘が発生します。

真理は、拡散されていく時に誤謬と嘘をまといます。

 

奇妙な話をしているように思われるかもしれませんが、「原発」もその点では同じように思うのです。

 

そこにある嘘や誤謬や欲を取り払った時、必ず「恐怖」が残るはずです。

それはこの「風が吹くとき」を読んだ時に感じる「恐怖」と同類です。

「科学の話」「カネの話」「政治の話」を取っ払ったら、「原子エネルギー」に人が感じる素直な印象は「恐怖」であるのが当然ではないでしょうか。

 

原発に関わった多くの科学者や政治家だって、本当は怖かったはずです。

怖くて当たり前なのです。

 

その恐怖を直視せず、「信仰」によって抑え込もうとした計画は、すでに失敗しました。

事故は現実に起きたのです。

 

どうして東日本大震災からの復興が進まないのかと言えば、それは責任ある立場の人間がいまだに恐怖を直視していないからです。

「正しく怖がる」ことを忌避し、「これまでと同じ感覚」で処理しようとしているからです。

それは哀れなジムとヒルダが最期まで「これまで通りの日常」を生きようとし、虚しく死んでいく姿に似ています。

 

想像力とは、現実を直視する力です。

想像力を働かせるとは、真理を理解することを諦めない態度です。

科学も宗教も、想像力を欠く限り、誤謬と嘘に絡めとられることは避けられません。

 

ちなみに「風が吹くとき」というタイトルは、マザーグースの子守唄から。

「風が吹いたら(中略)坊やも、揺りかごも、みな落ちる」といういささかぎょっとするような詩に由来するもの。

 

もうひとつちなみに、ジムとヒルダは、ブリッグズさんの別作品「ジェントルマンジム」にも登場します。

そちらは別に悲惨さはありませんが、やっぱりブラックなユーモアが効いています。

ブリッグズさんは実は相当にブラックな作風の作家です。

そうするとむしろ「ゆきだるま」は彼の作品群の中では「異色作」と呼べるのかもしれませんね。

 

推奨年齢:小学校高学年〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆☆☆

救いのなさ度:☆☆☆☆☆

 

■今回紹介した絵本の購入はこちらからどうぞ→「風が吹くとき

■これまでに紹介した絵本のまとめはこちら→「00冊分の絵本の紹介記事一覧

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